天智天皇と腹赤⑤ 天智天皇の“乞食の相”
そもそも、天智天皇が筑後に来たのはなぜか。
(来たのは即位前ということだが、呼称は“天智天皇〟で通す。)
その経緯が書かれた文を紹介する。
1、『南筑明覧』の記述
江戸時代に柳川藩士が書いた『南筑明覧』のここだ。
長嶋村腹赤宮ハ今釣殿宮ト云
天智天皇ヲ奉祭
天皇御位以前乞食ノ相在スユヘニ相ヲハタセ玉ント西國ニ下セ玉フ
筑後國江ノサキ小佐島ト云所ヲ通ラセ玉ヒケルニ労レサセ玉ヒテ供御奉ル者モナカリケリ
網ヲ引海人ニ魚ヲ召レテ御労ヲ休玉フ
其名ヲ御尋アリケレハ?ト申タリ
帝位ニ即玉イテ後召サレテ供御ニソナヘケリト云
天皇暫ク御座之跡ニ里人崇祀メ腹赤宮ト号
里人ノ説ニ
天皇ノ宸翰神殿ニ納ム中古盗賊之ヲ奪今ハ薩州候ノ家宝トナルト云々
(『南筑明覧』戸次求馬源親敷/文化十二年成立の写本を底本として侑子が活字化。わかりやすいよう一文ごとに改行。)
* 網=原文は略字。「網」の字に置き換えている。
** ?=環境依存文字。「魚」偏に「宣」という字。
***祀=原文の〝しめす偏〟の表記は「?」。
意味を箇条書きにしてみる。
・天智天皇は乞食の相があるため、即位前にその相を果たそうと西日本に下向した。
・筑後國江の崎小左島と言うところを通ったとき、天智天皇はお疲れだったが食事を差し上げる人もいなかった。
・網を引く漁師がいたので魚を持ってこさせ、体を休めた。その魚の名を尋ねると「ハラカ」と答えた。
・天皇は即位してから「はらか」を取り寄せて食事に添えた。
・天皇がしばらく滞在した跡を里の人が祀って「腹赤宮」と呼んだ。
・天皇直筆の文書を神殿に納めていたが、中世に盗賊が奪い薩摩島津家の家宝になった。
「釣殿宮」といっている神社は天智天皇が滞在した跡で、地元の人が?を差し出したことが由来。以前は「腹赤宮」と言っていたとのこと。
次に、『源平盛衰記』の記事を紹介する。
2、『源平盛衰記』の記述
鎌倉時代の成立とされる『源平盛衰記』では、このように書かれている。
治承五年正月一日
改ノ年立返タレ共、内裏ニハ東國ノ兵革南都ノ火炎ニヨテ朝拜ナシ。
節會バカリ被行ケレ共、主上出御モナシ。
關白已下藤氏の公卿一人モ参ラズ。
氏寺燒失ニ依テ也。
只平家ノ人〃少〃参テ被執行ケレ共、ソモ物ノ音不吹鳴、舞楽モ奏セズ、吉野ノ國栖モ不参、?ノ奏モナカリケリ。
タマ/\被行ケル事モ、皆〃如形ニゾ在ケル。
?奏トハ魚也。
天智天皇ノ、イマダ位ニ即給ハザリケル時、
「君は乞食ノ相御坐ス」
ト申ケレバ、
「我帝位ニツキテ乞食スベキニアラズ。備ヘル相又
難遁歟。御位以前ニ其相ヲ果サン。」
トテ、西國ノ御修行アリ。
筑後國、江崎、小佐嶋ト云所を通ラセ給ケルニ、疲
ニ臨ミ給タレ共、貢御進スル者モナカリケリ。
網ヲ引海人ニ魚ヲメサレテ、御疲ヲ休メサセ給ヒ、
「我位ニツキナバ、必(ズ)貢御ニメサレン」
ト被思召、其名ヲ御尋アリケレバ、
「?」
ト奏シ申ケリ。
帝位ニツカセ給テ思召出ヅゝ、被召テ貢御ニ備ケリ。
其ヨリ■此魚ハ、祝ノタメシニ備フト申。
(『源平盛衰記』古活字本/米沢善本を底本として侑子が活字化。わかりやすいよう句読点、濁点、鉤括弧を補っている。また、一文ごと、会話文ごとに改行を加えた。)
* ?=「ハラカ」環境依存文字「魚」編に「宣」。
** 所=原文は異体字。「所」で代替。
*** 網=原文は異体字。「網」で代替。
**** ■=合略仮名の「シテ」。
ちょっと長く引用したが、平家の南都焼き討ちなどで市中が荒廃し、正月なのに朝拝(元日に天皇が大極殿に出て、諸臣の年賀を受ける儀式)も正月のお祝い行事もない様子が描かれた場面だ。
注釈的に「腹赤奏」が何かを読み手に解説している。
『源平盛衰記』の読者層が宮中行事の解説を必要としたか、それともこれが書かれたときには「腹赤奏」が忘れられていたため注釈が必要だったのだろう。
源平の話に天智天皇が登場するのは不思議な感じだ。
見方を変えれば、ある階層の人たちもしくはある時代まで、「腹赤奏」について説明不要の共通認識があったと言えるのかもしれない。
3、「乞食の相」とは
『南筑明覧』『源平盛衰記』ともに、天智天皇が筑後に来た理由を「乞食ノ相在ス」に置いている。
「乞食」とはこれまた深い言葉だ。
萬葉集に、「乞食者の詠める歌」(三八八五と三八八六)というのがあり、当時は「ほかひ」と読んでいた。本来は、家々を訪れて神の祝福のことばを告げて回った人のことを言う。
(興味のある方は、〝折口信夫〟〝ほかひ〟で検索を。)
『源平盛衰記』では〝西國ノ御修行〟となっているので、この場合仏教の「乞食修行」を意味しているようだ。要するに托鉢だ。
食を乞い求めることになる。
天智天皇に〝乞食の相〟があり、将来食を乞うようなことがあってはならないのでいけないと、即位前に実行したというのだ。
観相をしたのは誰か、本当にそのような相があったのか(後付けではないのか)、なぜ西国なのか、などいろいろツッコミ所はありるが、どうやら腹赤を得たことが転換となったようだ。
〝困窮していたからありがたさを余計に感じた"ということだけでないと思ったのだが、言いすぎでしょうか。
天智天皇にとっても地元の人にとっても、印象深い出来事だったことがうかがえる。
ここで、前記事の「夜空を飛ぶ天馬と赤い色と北の空に関係がある」ことが関わってくるのだ。
次の記事で、そのことについて考えたいと思う。
おまけ:腹赤魚
ちなみに?は、春先に婚姻色としてお腹が赤くなる魚だそう。だから「腹」「赤」なのだ。
昔はそういう回遊魚がたくさん来ていたそうだ
ので、魚種は限定されないかもしれません。
