天智天皇と腹赤⑥ 大君は神にし坐せば赤駒の匍匐ふ田井を都となしつ 

前記事で『南筑明覧』『源平盛衰記』の記事を紹介し、腹赤魚が天智天皇の“乞食の相”の転換点になっていると書きました。

なぜそう思ったのか、順を追って説明します。

1、万葉集四二六〇 大伴御行の歌

万葉集に「赤駒」が登場する歌があります。
(歌が採録された状況がわかるよう、少し長めに引用しています。)

壬申年之乱平定以後歌二首

四二六〇 皇者(おほきみは) 神尓之座者(かみにしませば) 赤駒(あかごまの)
腹婆布田為乎(はらばふたゐを) 京師跡奈之都(みやことなしつ)
右一首大将軍贈右大臣大伴卿作

四二六一 大王者(おほきみは) 神尓之座者(かみにしませば) 水鳥乃(みずとりの)
須太久水奴麻乎(すだくみぬまを) 皇都常成通(みやことなしつ*)
作者()

右件二首天平勝寶四年二月二日( レ)之 即()()

*通=原文では異体字(文字コードu901a-k )。フォントがなかったので“通”で代替しました。

(『萬葉集』鶴久 森山隆編/桜楓社 五九〇ページ    わかりやすいよう改行位置を変更しています。)


“赤駒”が用いられているのは四二六〇歌の方です。
この歌は、一般的には次のような意味で解釈されています。

大君は神でいらっしゃるので、栗毛の馬が腹まで水に漬かって耕作する田んぼでさえ、皇都と成してしまわれた。
-引用:千人万首

ところが、『儺の國の星拾遺』ではこの歌の解釈が違っているのです。

2、万葉集四二六〇『儺の國の星拾遺』の解釈

大伴御行の歌を解説している箇所を引用します。

万葉集巻第十九 大伴御行(六四六~七〇一)作
大君は 神にし()せば 赤駒の
匍匐(はらば)田井(たゐ)を 都となしつ
腹赤駒(はらかのこま)は、中世以後は蠑螈(ゐもり)になるが、天武帝(六七三~六八六)の頃は、極光赤気を表現した。即ち宇宙の中心をも統治し賜う天皇の業績を賞め讃えた歌であった。北辰を腹赤星(はらかのほし)と言う。察するに赤気が日本でも隈なく美しく見えた時代の呼び名であったらしい。

(『儺の國の星拾遺』真鍋大覚/那珂川町 一五六ページ)

これによれば、万葉集の大伴御行の歌は、“即ち宇宙の中心をも統治し賜う天皇の業績を賞め讃えた歌”なのだそうです。

一体なぜそうなるのか?

「天武天皇の頃、極光赤気(赤い低緯度オーロラのこと)を腹赤駒(はらかのこま)と表現した」とのこと。

これまでの記事で書いたように、腹赤駒が赤いオーロラであるのなら、それは北の空を翔る大いなる存在でしょう。

また、“北辰を腹赤星(はらかのほし)と言う”とも書かれています。
北辰と言えば中国では紫微垣、天帝の在所です。
高松塚古墳やキトラ古墳にも、この思想に基づく星の配置が描かれています。
紫微垣の図

和漢三才図絵「北極紫微垣之図」部分・上下逆.JPG
パブリック・ドメイン, Link

漢籍の知識があり、北辰と赤駒が結びつく人であれば、大伴御行の歌は後者の意味にとれるのではないでしょうか。

3、天智天皇と腹赤魚

極光赤気(赤い低緯度オーロラのこと)を腹赤駒(はらかのこま)と表現したのは“天武天皇の頃”とありますから、天智天皇も同時代の人です。

北天に輝くオーロラや北辰を意味する“腹赤”の魚を手にしたら、どう感じたか?
想像に難くないと思います。

大げさな言い方をすれば、「乞食の相」が転じた瞬間だったのかもしれません。
あるいは、何らかのエピソードとして「これは使える」と思った瞬間だったかも。

『南筑明覧』には、“里人ノ説ニ天皇ノ宸翰神殿ニ納ム”と書かれていましたね。(前記事参照。)
天智天皇がこの出来事を重要視したことがうかがえます。

もし乞食の相を果たそうと流浪していたのであれば、乞食の相の終了を宣言されたようなものだったかもしれませんね。
比喩的に「天帝の座を手にした」わけですから。

あるいは乞食の相は後付けで、実際は別のこと(例えば白村江の戦いの準備or戦後処理?)に回っていたとしたら、それはそれでプラスイメージを付加(戦いへの不安?or敗戦の将と言うマイナスイメージ?を払拭)出来るエピソードです。
小左島(長島)に来た時期がわからないのでなんとも言えませんが。

いずれにしても、うまく利用したように思います。
歴史的にはその後近江できちんと即位したことになっていますね。
腹赤」にはそれだけの意味があった、と言って良いのではないかと思います。

そしてそれは次の代も同じだったようで、なぜか天武天皇にも腹赤魚のエピソードがあるのですよね。
この話、いったいどうなっているのでしょう?
もう少し見ていきたいと思います。

おまけ:「田」「井」は北辰の縁語

万葉仮名の「田為」に当てる漢字は「田居」が一般的で、“田んぼ”の意で用いられます。
(“為”はワ行の“ゐ”です。)

ところが『儺の國の星拾遺』では「田井」としています。

偶然かもしれませんが、「田」も「井」も“北辰”の縁語なのですよね。

樞の右は、昔は口ではなく田を書いた。方位を決定するに中心となる星のことであった。
(『儺の國の星拾遺』真鍋大覚/那珂川町ページをメモし忘れました。)

地球の歳差運動のため、北極星は約2万6千年の周期で移り変わります。
約4800年前の北極星はりゅう座α星ツバーンでした。
この星を“右樞”といったそうです。
そして現在の北極星はこぐま座のポラリスです。
この星を“左樞”というそうです。

“樞の右”というのは、北極星を表す“右樞”と“左樞”の樞の旁のことですから、これもやはり北辰に通じると言えるでしょう。
枢の異体字の右を口ではなく田にすると→このようになります。(または枢の異体字?)

他にも橿原神宮の“橿”に“田”の字が二つあることを引いて、“橿原”というのは観星台のことだとも書いてありました。(ページをメモし忘れました。)
ここでも“赤駒”が腹這うのは、ぬかるんだ田んぼではなく星に関係していることがわかるのですね。

個人的には、“田”はファインダーの十字の表象ではないかと思いました。

あ、ファインダーというのは、天体望遠鏡についている倍率の低い小さな望遠鏡のことです。
照準器といった方がわかりやすいでしょうか。
レティクル、クロスヘア、でweb検索するといろいろ説明が出てきます。

北辰を真名井星(まなゐのほし)と言う
(『儺の國の星拾遺』真鍋大覚/那珂川町 一二〇ページ)

「井」は「真名井」。つまり北極星に通じます。

あくまで私の想像です。
こんな話もあります。ということで紹介しました。