天智天皇と腹赤④ 昔は北を「午」とする方位観があった
前記事で星空の世界に天馬が翔ると信じられていたこと、それは〝北〟や〝赤〟、〝ペガサス座〟と関係がありそうなことを紹介した。
もうひとつ、〝北〟と〝馬(駒)〟に関する話を紹介する。
昔は南を子、北を午とする方位観があった。神代紀の根国は海の下、即ち赤道の南を言う。北辰を馬脛といった。那珂川で夜遊びに耽る子供を戒る威し文句に〝馬の足の化物の来る〟があった。馬脛と化物を重ねた言葉であった。
(中略)
伯耆因幡では、海亀を酋方と云ひ、土佐伊豆では寅方という。酉は西であるが、十二支を反対に数える方位で寅は西南西の方位となる。
(中略)
伯耆因幡では、海亀を酋方と云ひ、土佐伊豆では寅方という。酉は西であるが、十二支を反対に数える方位で寅は西南西の方位となる。
(『儺の國の星拾遺』真鍋大覚/那珂川町 二五ページ)
方角を十二支で表したとき、南が〝子〟で北が〝午〟だとする方位観があったと書かれている。
北が「午」になっている十二支方位を図にしてみた。
↓

「午」が北の方角なら、「ウマ」と「北」が結びく。
実際の馬や文字から北を連想するのも道理だ。
わざわざオーロラを介在させなくてもストレートに繋がる。
図1を右回りに見ていくと、東は「酉」だ。
枕詞に「とりがなく」があるが、この言葉が「東」に掛かるのはここから来ている、とさらっと書かれている。
萬葉集巻十一
小墾田の 坂田の橋の 壊れなば
桁より行かむ な戀ひそ吾妹
昔は東を酉、西を卯とする方位があった。今はその逆の東を卯とし、西を酉とする方が常識であるが、〝とりがなく〟が〝あづま〟の冠辞であった由来を説明することは、これでは出来ない。
(『儺の國の星拾遺』真鍋大覚/那珂川町 三一ページ)
小墾田の 坂田の橋の 壊れなば
桁より行かむ な戀ひそ吾妹
昔は東を酉、西を卯とする方位があった。今はその逆の東を卯とし、西を酉とする方が常識であるが、〝とりがなく〟が〝あづま〟の冠辞であった由来を説明することは、これでは出来ない。
(『儺の國の星拾遺』真鍋大覚/那珂川町 三一ページ)
これを読んだときは驚いた。
枕詞の「とりがなく」が、なぜ「東」にかかるのか謎とされているが、その理由が書かれていたからだ。
この枕詞については諸説あるが、こんな話は聞いたことがない。
十二支で東を表すと〝酉〟だから、「とりがなく」が「東」にかかる、というのは筋が通っていると思った。
(そういう方位観があったことが確かならば、だが。)
ちなみに、現在私たちが使っている十二支の方角は北が「子」だ。
図にするとこうなる。
↓

北を子とし、時計回りに十二支を当てて、東を卯、南を午、西を酉としている。
北東を艮というのは、丑と寅の間だからだ。
南北の経線を子午線というのもここから来ている。
他にも、北と馬(駒)に関連する語がある。
見つけられたものだけ紹介する。
北斗を駒場星という。p.84
小熊座大熊座を厩戸星と呼んだ。p.67
以上 出典:『儺の國の星拾遺』
北辰に丙午星なる古語がありました。今宿、今津、今山等の郷名が生きております。
出典:『儺の國の星』(ページ数をメモし忘れた。)
「ウマ」と「北」の方角は結びつくこと、夜空を飛ぶ天馬と赤い色と北の空も関係がある、ということは確かなようだ。
